出会いのキャッチコピー

アメリカが苦しみぬいた大恐慌もようやく終幕を迎えようとしていた1938年、マスコミをもっともにぎわせたのはI大統領でも、Hでも、Mでもなかった。 ローマ教皇P11世でもなければ、R・Gでもない。
1938年の新聞がもっとも大きく紙面を割いた対象は、人間ではなくなっていた。 はじめにそれは、シービスケットという名の、脚の曲がった小柄な競走馬だった。
大恐慌の後半、シービスケットはアメリカを代表する″アイドル″として、競馬界に限らず幅広い層から熱烈な支持を受けていた。 どこかでこの馬が走るとなると、アメリカを横断する特別列車「シービスケット・リミテッド」でファンがどっと押し寄せ、その地の道路を車で埋めた。
ホテルはことごとく満員になり、レストランの料理は食べつくされた。 彼らはなけなしの金をシービスケットの絵柄をあしらった財布に入れ、5番街でシービスケットハットを買い、スロットマシンの隣でシービスケットの名を冠した競馬ゲーム機が置いてあった。
すくなくとも9種類あった。 週末にはこの馬が出走するレースの実況をラジオで聴くのが国民的行事となり、4千万ものリスナーがじっと耳を傾けた。
シービスケットは、出走した主要な競馬場のほとんどで、動員記録を塗り替えた(アメリカ競馬史における最多観客動員記録ベストスリーのうち、ふたつはこの馬の出走したレースである)。 アメリカの人口が現在の半分にも満たなかった時代に、スーパーポウルにも匹敵する7万8千人の観衆が、この馬の最後のレースをその目で見届けた。
調教を見るだけのために、4万人の群衆が競馬場に押し寄せ、吹雪や殺人的な熱波を押して、駅に入るこの馬専用のプルマン気動車を垣間見ようとする人々も数千人におよんだ。 シービスケットは巨大な看板となってマンハッタンの上空をギャロップし、〈タイム〉〈ライフ〉〈ニューズウィーク〉〈ルック〉〈ビック〉〈ニューヨーカー〉などの雑誌に、来る週も来る週も何年にもわたってフィーチャーされた。

シービスケットの調教師も騎手も馬主もそれぞれがヒーローとなり、一挙一動がフラッシュを浴びた。 彼らはどこからともなく現れた。
泥のような体色の鹿毛で、どうあってもまつすぐにならない前脚をもつ小ぶりな馬シービスケットは、真価が理解されず、誤ったあつかいを受けた結果、ほぼ2シーズンを格付けのもっとも低いレースで走る羽目に陥っていた。 いつも悲しげな顔をした騎手のIは、少年時代、モンタナの牧草地を切り開いて開催されていた競馬場に一文無しで放り出された。
それからは低ランクジョッキーとして田舎町を転々とし、金が底をつくと懸賞金目当てのボクサーとして血にまみれ、馬房の床で眠る生活を送っていた。 調教師のTはほとんど言葉を発しない謎めいた野生馬馴らしは、時代の流れとともに、当時消えゆきつつあった。
フロンティアからの転身を余儀なくされた男で、馬にまつわる古の叡智の数々を身に着けていた。 馬主のT・Hは肩幅の広いにこやかな男で、米西戦争のときは騎兵隊にいた。
自転車の修理店経営から身を起こし、わずか211セントの元手で巨大な自動車販売会社を成功させ、一大帝国を築きあげた人物だった。 1936年のうだるように暑い8月の土曜日、一見まるで共通点のないP、S、Hの3人は、デトロイトで手を組んだ。
シービスケットのなかに、そしておたがいのなかに潜む才能を認め合った男たちは、シービスケットの調教を開始し、やがて馬とともに無名の存在から脱することになる。 シービスケットをめぐる男たち、さらにはアメリカにとっても、それは5年にわたる波潤雌伏と雄飛の時代の始まりだった.1936年から40年にかけて、シービスケットは信じがたいほどの不運、陰謀、怪我と闘い、史上屈指の非凡な競走馬としての地位を確立した。

火を吐きそうなスピード、駆け引きの巧みさと、不屈の意志に恵まれた馬は、疲労をものともせず、8万キロ以上の距離を鉄道で移動し、アメリカを代表する馬たちを相手に、過酷な負担重量を負わされても勝利をおさめ、十以上のコースレコードを打ちたてている。 何かと話題をまいた三冠馬ウォーアドミラルとのマッチレースは、今日もなおアメリカ競馬史上最高のレースと目されている。
また、世界一賞金の高額なレースに勝利するまでの、波潤に満ちた4年の道のりも広く関心を集めた。 そして1940年、この古馬とジョッキーは、競馬人生に終止符を打つかと思われた負傷をへて復帰し、ひとつだけつか承そこねていた栄光に挑んだ。
その間ずっと、この小さな馬とそのトラック生命をよみがえらせた男たちは、アメリカ人の心をとらえて放さなかった。 人々を惹きつけたのは、単なる記録の偉大さではない。
それは、馬と男たちの物語だった。 その物語は、列車で西海岸に向かうひとりの若者とともに幕を開ける。
T・Hには突っ走る巨大な乗り物を思わせるところがあった1周りの人間はその上に飛び乗るか、あわてて脇に跳び退くしかない。 煙草を2本の指にはさんだ彼が、勢いよく部屋に入ってくると、人々はまるで大魚につきそう小魚のように、そのあとをついて回る。
どうして1935年のHは58歳。 ビッグサイズのスーツを着こなし、超ビッグサイズのビュイックを乗り回す、長身の情熱的な男だった。
だが人々を惹きつけたのは、彼の押し出しのよさではなかった。 彼の住む北カリフォルニアの牧場はとぼうもなく広く、一度でも曲がる角をまちがえようものなら、永遠に迷ってしまいかねなかったが、人々はHの暮らし向きのよさに惹きつけられたわけでもなかった。
彼は大声で朗々としゃべるタイプではなく、知人には思いやりのある、もの静かな態度で接していた。 Hが人々を惹きつけたのは、はっきりと説明できないなにか、彼のかもし出す雰囲気だった。
会った人にとってHは、出会うことが運命であったかのように感じさせる男だった。 その放つ迫力は、世界はかならず彼の望みどおりになるという思いを人々に感じさせていた。

大型車や牧場や大金を手にするはるか以前、1903年のある午後に、Hはそうしたもって生まれた雰囲気とポケットにあった211セントだけを元手に、一人前の男としての生活をスタートさせた。 彼はニューヨークからくねくねと西海岸に向かう大陸横断鉄道の、ガタゴト揺れる床に座っていた。
その時Hは26歳。 ハンサムで、紳士的で、はちきれんばかりの夢をもち、後年の彼を知る者には想像もつかないほど髪がふさふさだった。
また士官学校で馬の鞍にまたがってすごしたおかげで、185センチの身体はいつもびしっと伸びていた。 東部で生まれ育ったにもかかわらず、彼は好んで変化を求める西部的な気性の持ち主だった。
1898年の米西戦争では騎兵隊に志願し、熟練の騎手となったものの、タイミングの悪さと赤痢が原因で、アラバマのキャンプウィーラーを一歩も出ることなく軍隊生活を終えた。 除隊後はニューヨークで自転車の修理店を開き、自転車競技にも参加。
その後結婚し、ふたりの息子をもうけた。 悪くない暮らしと思われたが、東部はHには息苦しかった。
彼の心は決してひとつところに落ち着こうとせず、その野心は、ロッキー山脈の向こうに広がる「新しいアメリカ」をしっかり見据えていた。

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